戦後の生活
- 復興に向けて -

戦後の生活
~復興に向けて~

沖縄本島内での激しい戦争が終わったのち、日本軍の兵士たちは「敗残兵」となり、沖縄に住んでいた民間人は、そのほとんどが「収容所」と言う場所に集められて生活を余儀なくされました。
※敗残兵とは
戦争が終わった後に様々な場所に取り残された日本軍として戦った兵士の生き残りのことです。アメリカ軍に見つからないように、長い間山の中で隠れて生活している人もいました。

 

収容所とは
アメリカ軍は、沖縄への上陸作戦を行う前に非戦闘民である沖縄の住民を一か所に収容することを決めていました。

そのために作られた場所が「収容所」です。

ここに住民たちをまとめて置くことで、住民が日本軍と協力するのを防ぎ、住民がいなくなった土地を軍事作戦に利用することができるようにと考えて作られたものです。

当時、多くの本部町民が収容された場所として田井等と大浦崎があります。
収容所写真
大浦崎収容所で暮らす人々:沖縄公文書館所蔵
収容所とは
アメリカ軍は、沖縄への上陸作戦を行う前に非戦闘民である沖縄の住民を一か所に収容することを決めていました。

そのために作られた場所が「収容所」です。

ここに住民たちをまとめて置くことで、住民が日本軍と協力するのを防ぎ、住民がいなくなった土地を軍事作戦に利用することができるようにと考えて作られたものです。

当時、多くの本部町民が収容された場所として田井等と大浦崎があります。
田井等は1945年4月上旬に名護市田井等に設置された収容所です。避難者を含む本部半島の住民のうち、今帰仁村謝名・越地以東の人々が収容されました。 収容された人々には配給や最低限の物資が与えられました。
それに、収容所に入ればもう「自分や家族はいつ殺されるのか」と心配して逃げ隠れする必要はありませんでした。

 収容所に入れられた時、不安と共に「命からがら逃げまわること」から解放されてほっとした方も多かったことでしょう。
しかし、実際には収容所にも様々な問題があり、戦争の余波も続いていたのです。
収容所の問題
収容所の問題
食糧不足
収容所で配給された食料は非常に少なかったため、それだけでは到底足りなかったようです。その為、規則を破り命がけで収容所を抜け出すこともあったようで、日本へのスパイ活動を懸念した米軍に射殺されることもありました。

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マラリアの発生
収容された人の多くは怪我をしている上、衛生面も悪かったので蚊を媒介とするマラリアと言う恐ろしい病気が流行りました。マラリアは通常死亡率はさほど高くありませんが、極度の栄養不足に疲労、擦り切れた精神状態という悪条件に重なったことで、多くの人が亡くなってしまいました。

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軍人による暴行
収容所内の問題の一つに、度々アメリカ軍が民間人の女性に乱暴すると言う事件がありました。それを止めようとした人が殺されると言う悲劇もあり、女の人たちは安心した生活ができませんでした。 また、山に隠れていた日本軍の敗残兵が、民間人を「アメリカに寝返った裏切り者」として殺害したり、わずかな食料を奪っていくような事件もありました。
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収容所から始まる民主主義
収容所から始まる民主主義
収容所内において、安定した自治を保つために、アメリカ軍は自分たちの軍政(方針や運営)を収容所地区の人々に伝える必要がありました。
そのために、住民の中から「米軍に協力的」「英語が話せる」「住民の中でリーダー的な役割をする」人を選び、メイヤー(市長)として任命し、メイヤーを長として人々をまとめる組織を作りました。しばらくすると、メイヤーは住民の選挙から選ばれるようになり、これが沖縄の民主主義の始まりであったと言われています。
役職には、メイヤーの他に、シビルポリス(警察)や班長などがありました。

収容所での苦しい生活の中で生まれた民主主義の下、数カ月をかけて情勢も安定してきたころ、人々は自分たちの故郷への帰村を許されるようになります。
しかし、いざ帰ってみると土地は全てアメリカ軍が取り払って整地されており住む家もなく、近所の豚小屋を仮住まいにしたり、自分たちで家を建てたりすることも余儀なくされました。その間にも、マラリアや栄養失調で亡くなる方は後を絶ちませんでした。
田井等の地図を見ながら相談する市長
田井等の地図を見ながら相談する市長:沖縄公文書館所蔵
収容所内において、安定した自治を保つために、アメリカ軍は自分たちの軍政(方針や運営)を収容所地区の人々に伝える必要がありました。
そのために、住民の中から「米軍に協力的」「英語が話せる」「住民の中でリーダー的な役割をする」人を選び、メイヤー(市長)として任命し、メイヤーを長として人々をまとめる組織を作りました。しばらくすると、メイヤーは住民の選挙から選ばれるようになり、これが沖縄の民主主義の始まりであったと言われています。
役職には、メイヤーの他に、シビルポリス(警察)や班長などがありました。

収容所での苦しい生活の中で生まれた民主主義の下、数カ月をかけて情勢も安定してきたころ、人々は自分たちの故郷への帰村を許されるようになります。
しかし、いざ帰ってみると土地は全てアメリカ軍が取り払って整地されており住む家もなく、近所の豚小屋を仮住まいにしたり、自分たちで家を建てたりすることも余儀なくされました。その間にも、マラリアや栄養失調で亡くなる方は後を絶ちませんでした。
日本が正式に敗戦を認めた1945年8月15日に戦争は終わったとされています。
しかし、その後マラリアや栄養失調など、戦争の余波で亡くなった人々にとって、彼らの「戦争の終わり」は「人生の幕を閉じた」その瞬間であったのではないでしょうか?
「戦争の苦しみ」も同様、それは一つではなく、戦争を体験することになってしまった一人一人に異なる苦しいストーリーがあるのです。