戦世とくらし

戦世を生きて
~町民に聞く戦時体験~

本部町での体験
私が国民学校2年生の頃です。当時、本部国民学校には暁部隊(海上輸送を任務とする陸軍の部隊)が駐屯していました。私の家は本部国民学校の向かいにあったので、軍隊ラッパの音に合わせて歌を歌っていたことを覚えています。

昭和19年の10月10日に、米軍機の編隊が突如上空に現れ十・十空襲が起きました。地域住民は近くの壕や、土手や小川や草地に身を潜めるなど必死でした。空襲で渡久地や谷茶の住宅街が炎上し、その日のうちに谷茶区は全焼、渡久地は学校の運動場西側を流れる川まで全焼してしまいました。

十・十空襲が終わった後、私たち家族は避難のため真部山の4つの壕を転々とし、避難先の山小屋で弟が産まれました。
4つめの壕に移動していた時です。その当時、母は食事も食べていなかったため母乳が出ず、生後2か月であった赤ちゃんが空腹のため泣き出してしまいました。
泣き止ませるため母は必死でしたが弟は泣き止みません。その時に「敵に気づかれては、全滅してしまう。子どもを殺しなさい。殺せないのであれば私がやる」とまわりから言われ母は、「子どもと一緒に死んでしまおう」と、激しく艦砲射撃が撃ち込まれる中、壕から出て行きました。
艦砲弾の模型
このような艦砲弾が雨のように降ってきたという
艦砲弾は着弾するとさく裂し、破片があちこちに飛び散るわけです。鋭利な刃物のようになっていて体に突き刺さるんですよ。 そんな砲弾の雨の中を母は出て行ったのです。私は、「母と赤ちゃんも死んでしまう」と思いました。しかし15~20分で赤ちゃんは泣き止み二人は奇跡的に壕へ戻ってきました。

その後は米軍が攻めてくるというので、私たちは4つ目の壕から逃げることになりました。照明弾が上がると身を伏せて、しばらくして顔を上げると家族とはぐれてしまい、兄弟3人必死で逃げていたら、住民がたくさん歩いていて、その中に泣き叫ぶ両親を見つけました。両親は私たち(子どもたち)が死んだと言って泣いていたが、私たちを見つけると「死なないでここまで逃げて来たんだね」と家族抱き合い、再会にうれし涙を流しました。

それからは家族一緒に逃げて、大嵐(ウフアラシ)の親戚の空き家にたどり着いて仮眠をとっていました。近くに米軍の攻撃を感じて目を覚ますと、となりの家が燃えていて、山手に逃げる母たち3人に向けて米軍が激しく小銃弾をあびせていました。私は逃げようとしたが、その時にはもう遅かった。米軍4人がこちらに小銃を向けていました。
私は死を覚悟して、近くにあった大きなガジュマルの木を抱き、大きな声を張り上げ「ワー!」と声の限りを出して泣きだしました。
その時、私の泣き声と同時に父が銃口に向けて走り出しました。父は畑の真ん中で立ち止まり両手を高く挙げました。その様子を見た米軍兵士は銃を下ろし、こちらに来なさいと手招きました。その後、米兵は父の頭の傷を手厚く治療してくれました。鬼畜米英と教えられていた私たちにとっては信じられないほど優しく手厚かったです。
終戦については、ラジオなんてなかったので、地域の人が話しているのを聞いて知りました。
戦争が始まる前、私の家は店を営んでいることもあって裕福だったので牛肉などを食べたりもしていました。戦争が始まってからは、火を使うと煙で居場所がバレてしまうので、はったい粉(麦などを石臼でひいて粉にしたもの)にクルザーター(黒糖)を砕いたものを袋に入れ、粉と混ぜて食べましたね。
当時赤ん坊だった弟には、鷲ミルクの缶に穴を空け、それを指ですくってあげていました。
2~3日何も食べない日もありました。しかし空腹を感じることはなかったですね。毎日生きるか死ぬかですから「自分はいつ死ぬのだろう」と恐怖に体が震え、ひもじさを感じる余裕もありませんでした。

昭和20年の4月頃からは、羽地の収容所で生活し、その後伊佐川で渡名喜橋のそばに掘っ立て小屋を建てて家族で暮らしていました。そして昭和20年の11月頃になって、本部町民の集団で並里での難民生活を送り、十・十空襲から1年3ヶ月後にようやく元屋敷に戻り、雨風をしのぐためのテント小屋を建てて生活しました。

本格的な茅葺住宅に建て替わったのは昭和21年2月頃の事です。
戦後も食糧難は続き、ネズミやカエル、アフリカマイマイや食べられそうな雑草などを摘み取って命をつないでいました。だからおなかの中に回虫がいて、鼻や尻から出たりもしました。
ワシミルク
このミルクを弟に与えていたという
昭和21年頃は、本部国民学校の西運動場の一角にトーバルに駐屯してるアメリカ軍が残飯を運んできて捨てる場所がありました。その中にはまだ食べられそうな肉があって、その肉を奪い合いするんです。その上にもさらに残飯が積み重なっていく、そして段々残飯が腐って、ウジが沸いている中、ウジ虫をかき分けながら残飯をとって食べている人々もいました。
その光景を思い出すと今でも身震いし、涙が出ます。
本部町出身 N氏・83歳(当時8歳)
本部町での体験
当時の年齢は14歳。私は一住民として軍に関わってはいませんでしたが、精神的には常に戦っていました。
十・十空襲の時、伊江島での日本軍の演習と思って丘で見学していると、先輩に「飛行機のマークを見ろ、あれはアメリカ軍の物だ。」と叱られてその場から逃げました。

いつ頃とははっきり覚えていませんが、本部と伊江島の人は今帰仁の諸志に集められて、トラックで久志へ連れていかれました。
そこで、アメリカ軍から一グループに一つずつテントが配られそのテントで過ごしていましたが、鉈や鋸を持っている人は木や竹などを切って来て掘っ立て小屋をつくってその小屋で一年くらい過ごしました。鉈や鋸は自由に使っていました。
自分たちみたいに若い人はその収容所から抜け出して自分の村に帰って、ヤギ小屋しか残ってなかった家で、ヤギ小屋を生かしてそこに寝泊まりし、収容所と自分の家を行ったり来たりしていました。

浜元にはアメリカ軍の塵捨て場があり、その塵捨て場からメリケン粉や缶詰類などの食べ物を拾って食べ、服もそこで拾って着たりしていました。HBTの生地で造られた頑丈な服でした。生活に必要なものはほとんどアメリカ軍の塵捨て場で手に入りました。
元々は学生服を着ていました。その外靴などはアメリカ軍からかっぱらってきて戦果(せんくゎ)を挙げたと言って喜んでいました。英語のできる人(アメリカに住んで戻ってきた人)には何の不自由もなく、いろんなものが手に入りました。
終戦は久志で知りましたが、何で知ったか定かではありません。

戦時中の食べ物は、米を食べていました。米は真部山部隊の倉庫から盗んできたものでした。その倉庫にはいっぱい米があったといいます。芋に米を混ぜて食べるのは美味しかった。米がなくなると、ソテツを食べました。ソテツを細かく刻んで洗えるだけきれいに洗って、芭蕉の葉っぱでくるんで発酵させる。発酵するとまた洗ってを、繰り返して、ウジが湧くまでやりました。ウジがいると毒がなくなったことになる。それをまた洗いなおして、筋がなくなって割れるようになって料理する。美味しくはなかったが、好きな人もいました。
ソテツはでんぷんを取って食べたり、食べ方はいっぱいありました。味噌の材料や畑の肥料としても使いました。
パパイヤはあっちこっちの庭にあったので、パパイヤシリシリーしておからを一緒に炒めて食べましたね。
本部町出身 B氏・89歳(当時14歳)
予科練の体験
当時私は15歳で、監視哨の任務にあたっていました。昭和19年10月9日の夕方5時に、次の当番と交代しました。その次の日が十・十空襲で、当番で任務にあたっていた同級生が亡くなりました。
9日一緒に任務にあたっていた先輩は、任務がおわるとすぐにカツオ船「太栄丸」に乗って出かけたのですが、粟国沖で空襲に遭い亡くなりました。「太栄丸」のほかにも「海龍丸」「長栄丸」などのカツオ船と「南海丸」、海軍潜水母艦「迅鯨」が海で被害に遭いました。
南海丸は疎開の荷物を運ぶ船でした。迅鯨の曳航船だった「鷹島」は空襲が始まり名護湾へ逃げていましたが現在の北部農林高校前で被害に遭い撃沈しました。

10月10日、その日私は友人3名とトビウオを採りに出かけました。サバニに乗って迅鯨の前を通ろうとしたのですが、そうはいきませんでした。迅鯨に向かって機銃掃射がボンボンと撃たれていて、私たちは瀬底の岩陰に隠れました。海はもう油でいっぱいになっていました。油で泳げない人が大勢いて…その時、使命感からか私は救助活動にあたって30名ほどをサバニで瀬底に揚げて救命しました。

迅鯨では乗組員135名が死亡しました。戦死者名は迅鯨艦長の手帳に記載されていました。迅鯨は5日間も炎上していました。
瀬底国民学校や渡久地の町もみんな焼けてしまいました。

本部が激戦地だったことはあまり多く知られてはいないのではないでしょうか?屋比久原には大きな大砲がありました。この大砲は那覇から揚げて本部まで引っ張ってきたものなんです。1発も使用してはいないのですけどね。
当時のNさん
当時のNさん
私は昭和20年2月11日までは、救助作業などにあたっていましたが
昭和20年3月1日に予科練として召集がかかり、本部を離れ県外へ行きました。
※ 予科練(よかれん)とは海軍飛行予科練習生の省略で、旧海軍の飛行機搭乗員を育成する制度のこと。

予科練は、少年たちの憧れでしたから。
当時の学生服とかは大体5つボタンだったんですが、予科練は金色の七つボタンなんですよ。
予科練の歌にも、七つボタンってあってね。それが憧れだったんです。

県外にいるときは、戦況を教えてもらえなかったため、まさか沖縄にアメリカが上陸していることは、知る由もなかったです。

そして昭和20年の8月11日に、私たちに与える魚雷艇をもってくるとの話がありました。
魚雷艇の到着を待っていた昭和20年の8月15日に軍の方からラジオ放送を聞くように言われました。
そこで玉音放送を聞きました。終戦を知った心境は複雑なものでした。
喜びもあり、悔やみもあり、生き残ってしまったという恥もありました。
実は私、今まで人生で食べ物に困ったことはないんですよ。
召集がかかる前も、監視哨任務にあたっていた人たちは「豆腐の汁物」や「そうめん汁」などを食べさせてもらっていました。
当時の本部町は主食が芋で、その芋すらも手に入りにくいという中、私たちはご馳走だったそうめん汁などを食べさせてもらっていました。

予科練として召集されたあとも雑穀ではなく、育ち盛りだからと予科練は白米を与えられていました。

戦後、沖縄に戻ってからはサバニに乗って、スズメダイを採っていました。当時は魚が一杯採れたものです。採った魚は米などと交換したりしていました。
今、本部町立博物館に展示されているサバニで私は戦後の食糧難を乗り越えてきたのです。
本部町出身 N氏・90歳(当時15歳)
疎開児童の体験
私は当時小学5年生でした。1944年に最後の疎開船に乗って台湾へ疎開しました。もともと父が台湾の中学校で教師をしていたので、母や妹、弟たちとともに高雄にある父の家に移りました。台湾人は沖縄人にはやさしく、豊富にあった米や果物を分けてくれましたので、台湾での疎開生活で食べ物に困ることはなかったです。レイシやリュウアンなど、果物が美味しかったです。戦争が激しくなってからは台中の田舎へさらに移って、疎開先の農家の息子Kと仲良くなりました。ある日外にいるとKが走ってきて、「日本負けたよ」と言うのでそこで終戦を知りました。

終戦後、台湾ではすぐに沖縄人は帰してくれるとのことだったので、父の家がある高雄に一度戻り、基隆(キールン)からLSTという米軍の上陸舟艇に乗って、父の地元である宮古島へ行き半年過ごしたのちに、本部に戻ることができました。
戦後は再度開校した本部小学校に6年生として入学しました。

疎開前によく食べていた野菜はニガナ、フーチバー(ヨモギ)、ニガウリ(ゴーヤ)、ナーベーラ(ヘチマ)などです。小学校へ持っていく弁当は炊いて皮をむいたイモとバショウの葉に味噌を包んだものをタオルに包んで、昼休みになると校舎の裏に生えているノビル(ネギ)を取り、味噌をつけて食べました。

遠足など特別な日の弁当はごはんと油味噌、卵焼きを包んで持っていっていて、とても美味しかったことを覚えています。
当時はイモが主食で、自宅でも炊いたイモを山盛りにして家族で分けて食べていました。子供も全員1坪ずつイモ畑を管理していて、食料増産日には学校が休みになって農作業をしました。たんぱく質は本部のカツオ節工場で余っているカツオの頭や内臓、骨をもらってきて塩漬けにしてバーキ(かご)に保存し、少しずつ食べていました。ナマコやサメを日干しにしたものも持ち歩いて食べたものです。

ほかに食べたものといえば、ヤマン(ヤマイモ)とねぎの油炒めや、モーアーサ(ネンジュモ)と豆腐の和えものをよく食べましたね。雨上がりの日には地面に生えているモーアーサを取りに出かけたり…カンラバー(イモの葉)を具に入れたみそ汁に蒸かしたイモを入れて、潰して溶かしながら食べるのが美味しかった。戦後すぐの頃は主に米軍の缶詰を食べていて、ソーセージなどが入っていて美味しかったですね。
本部町出身 T氏・86歳(当時10歳)